「コチサム」第6章次点作品

第6章のナイスな「コチシム」作品特別掲載コーナー


[第6章次点作(その3)]
(PEACEさんの作品です)

寒い冬も終わり、ようやく春がやって来た。コチサの済む街もにわかに春の香りが漂いはじめる。よく、田舎の人は、「東京には季節がない」と言いうが、それは嘘だとコチサは思った。
東京の顔は季節によって変る。この殺伐としたコンクリートジャングルも
秋は素敵な街。にわかにセピア色に染まる都会の風景。沿道に黄色く染まる銀杏並木。枯れ葉の舞うキャンパス。ビルのガラスをオレンジ色に染める夕焼け。
そして静かに街全体がグレーの色に移り、恋の都へと変るのが冬の東京。
コートの上からお揃いのマフラーを巻いて寄り添って歩く恋人たち。白い息。
格子窓の付いた小さな喫茶店から眺める公園通りの人込み。ミルクティーの湯気。
高層ビルの谷間に鮮やかに輝く大きな大きなクリスマスツリー。
そして、グレーがかった風景が、突然鮮やかな色に変るのが春。都会の春は突然やって来る。この春、東京に匂いがある事をコチサは初めて気付いた。
東京に出てきたばかりの一年目は、右も左も解らぬまま慌ただしい毎日が続き、季節を眺める余裕など何処にもないままあっという間に過ぎ去った。
<あ、東京の匂いがする>
二年目の東京のある朝、春の日差しを浴びながらコチサは思った。

学校の勉強は一層厳しいものになってきた。そろそろ本腰を入れなければと皆が焦る。それでも食べる為には、その勉強の忙しさの合間を縫ってバイトもしなければならなかった。
コチサは証券会社のバイトをクビになったあと、いろいろなバイトを点々として、今はイベントコンパニオンの仕事をしている。
コチサはこの仕事が大好きだった。とにかく話すことで実践練習が出来る仕事がしたかったコチサにとってはうってつけのバイトだった。
彼女にとっては見るもの聞くもの全てが新鮮で、とにかく色々な事をスポンジの様に吸収していった。

「このイベントは入場料も取らずになんの為にやるのですか?」
「このイベントは興行ではない。販促なんだ。」
「ハンソク?」
「そう、販売促進。つまり商品を宣伝するためにやるんだ。」
「でも、宣伝だったらテレビや新聞に広告を出す方が効果的な気がしますが」
「ははは、実に素人の意見を代表した質問だね。広告は一方通行なんだ」
「イッポウツウコウ・・・」
「そう、情報の垂れ流し。でもイベントは消費者を目の前に出来る」
「あ、つまりお客さんの情報収集をするんですね。私の持ってるこのアンケートで。」
「うん、それもある。でも、それは意見を聞くというより後で資料にするんだ」
「資料?」
「そうだ、イベントを見ただけで商品を買うとは限らない。だから後からDMを送るんだ。住所や名前がわからなければ送れないだろ?」
「なるほど。。。」
「そしてその後その資料は売るんだ」
「売る?どこに?」
「資料屋さ。何もDMを送るのは我々だけではない。化粧品、衣料、清涼飲料、 教材、百貨店、健康食品などなど、、何処も新しい資料を欲しがっている」
「つまり、資料屋さんに行けばいろいろな資料がある訳ですね」
「そうだ、そしてこのアンケート用紙もその資料屋の在庫になるわけだ」
「へ〜、、」
「君の家にも、送られて来たことないかな? 行ったこともないデパートからバーゲンセールの案内とか、、、」
「あ、ありますあります、、、ああ、なるほど!」
「納得出来たら早く仕事に戻りなさい。なぜなぜお嬢ちゃん」
「なぜなぜお嬢ちゃんって。。。」
「君は何でも質問してくるだろ?だからなぜなぜお嬢ちゃん。」
「すみません。」
「いや、とても良いことだ。他の子達みたいにただ時給をもらうだけではなく君の様に勉強熱心な子は少ない。頑張ってね」
「ありがとうございます」

イベントの仕事は実に様々で、そのイベントによって主催者側の経営状況もわかる。彼女は仕事も勉強も真剣に取り組んでいた。

コチサが初めて大きな会場で開かれる大規模なイベントに参加したのは芸能人大運動会だった。その話しが来た時は彼女の胸は踊った。
<これはチャンスだわ。テレビに出れるし、もしかしたらこれをきっかけに・・・>
しかし、それがプラカードを持つだけの仕事だと知った時はショックだった。
<なによ、バカにして。今に見てなさい!>

ある日、コチサの所属するコンパニオン派遣会社の社長から直々にお呼びがかかった。社長と言っても小さな会社なので雲の上の存在というわけではない
。呼ばれたのはコチサだけではなかった。他にも10人程の女の子達が社長の前に並んだ。
「次の仕事は大事な仕事だ。今非常に勢いのあるコンサルタント会社からうちに派遣の以来が来た。この会社を得意先に付けるには失敗してもらいたくない。君たちは非常に評判がいい。だから選抜させてもらった」
<どうせまたプラカードでしょ>
「イベントはエレクトロニクスジャパンという、日本の大手電気メーカーがそれぞれ新製品を展示する。場所は幕張メッセ。君たちは各メーカーのイメージガールとしての役を演じてもらいたい」
コチサはもらった台本を見てビックリした。

イベントの前日リハーサルが行われた。会場に入ったコチサはその規模の大きさに目を見張った。
世界を又にかける日本のエレクトロニクス産業の代表企業がそれぞれブースを用意している。
中には聞いたこともない小さな会社もあったがブースの大きさをみれば会社の規模は一目瞭然だった。海外からの出展企業もかなりあった。
コチサが担当するのはソミーという日本の代表中の代表企業。
その名を聞けば世界中に知れ渡っている一大帝国を築く世界有数の音響メーカーである
。このメーカーが世界に先駆けて発表する8ミリビデオの小型ハンディーカメラのブースを受け持つことになっているのである。
リハーサルではコンパニオンの立ち位置や、注意事項等が各メーカーの担当者から説明がされ、デモンストレーションの練習が何度も何度も一日中繰り替えされた。
コチサの受け持つブースは、その会場の中でも特に派手で大きかった。
一段高くなったステージのバックの壁一面に、ブラウン管を縦横に16ケ並べた巨大モニターが配置され、ステージ両脇に実演コーナーを設置して商品がお客さんの手にとって見れるようになっている。
ステージの前には椅子がズラリと並べられ、会場の中に小ホールを作ったようなものだ。ステージの上方にはメーカー名の「SOMY」のロゴを形取った大きな電光モニュメントが高々と掲げられている。
このイベントに賭けるメーカーの意気込みがこのブースに凝縮されていた。
<確かに経済大国ニッポンだわ。明日から一週間、世界の真ん中がここに移動してくるのね>

イベント当日、会場には沢山の人が押しかけた。コチサが驚いたのはマスコミ関係者の多さだ。一般入場者の写真撮影は禁止されているが、許可をもらった取材陣は中での撮影が許されている。新聞社、テレビ局、雑誌出版社などなど。
世界各国のエレクトロニクス専門紙の取材陣達も来ている。
<ひょえ〜、、プラカードどころじゃなくなっちゃったぞ、、、>
オープニングレセプションは派手であった。コマーシャルで起用したタレントを連れてくるメーカーも中にはあった。会場の中でもコチサの受け持つブースはかなり注目を集めた。メーカーの広報担当者が雑誌のインタビューに一日中答えているのがステージの上のコチサからも見えた。
やっと初日が終わった時は、コチサの足は棒のようになっていた。
「これが一週間つづくわけ?」
更衣室の中で愚痴をもらしたコチサに、先輩コンパニオンがにこやかに答えた。
「初日だけよ。明日からマスコミはもう来ないわ。」
コチサはちょっぴり残念がった。

一週間の日程も中盤に差し掛かるころ、スタッフの顔と名前がようやく一致して来た。でも誰が偉い人で誰が下っ端なのかはわからなかった。
コチサは良くスタッフの男達にナンパされた。彼女はにこやかに上手くかわしていた。
そんな中で、コチサが絶対に受付けない男がいた。毎日しつこく声をかけてくる
いやらしい男だ。いかにも女タラシのような容姿をしている。背は高く顔もなかなかだが、その軽そうな声の掛けかたが大嫌いだった。
「よ、お嬢さん。今日こそ食事でもおごらせてよ。食事がだめならお茶でも」
「いえ、結構です!」
「じゃあ、いきなりヤル?」
「仕事の邪魔です。あっちに行って下さい!」
<他の子はアイツの顔で落ちるかもしれないけど、私はそんなに軽い女じゃないわ>

仕事は馴れてくると単調で退屈だった。台本通りの台詞を読み上げ、マニュアル通りのデモンストレーションの繰り返しだった。
ある日、いつもの様にステージ上のデモが終わり、実演コーナーに降りて客達の前で実演をしていると、客の中の一人が声を掛けてきた。
「すみません。質問してもいいですか?」
「ハイ。どうぞ」
にこやかに答えながらコチサは思った。
<どうせいつもの質問でしょ。値段?発売日?それとも私のスリーサイズ?>
「このパンフレットに書いてある新方式採用というのは、今までのビデオとはどこがちがうのですか?」
<え!?>
一瞬コチサの頭の中はパニックになった。そんな質問されたことはなかったからだ。
「えー、それは録画の機能ですか?それとも再生の機能のことでしょうか?」
時間稼ぎに聞き返しながら彼女は頭をフル回転させた。
「録画の機能です。これは磁気ヘッドに仕掛けがあるのですか?」
「え、ええ、そうです。」
「どのような方式なのですか?」
「それはですねぇ、、」
コチサは急いで周りに目を走らせたが、いつもいるはずの担当者は食事に出てしまっているらしく姿が見えない。
「それはですね、ええと、今回当社が採用した磁気ヘッドは、従来の物と比べてテープへの接触面積を半分以下にすることに成功したのす。ビデオテープと言うのは簡単に申しますと、お客様もご存知の通り紙に鉄の粉を吹き付けただけのものです。そのテープに電気信号による磁気を当てることによって、 映像、音声という二つの信号を記憶させます。通常モノラルの場合はヘッドが二つ。ハイファイですと三つのヘッドが必要です。これは、映像一に音声が 左右それぞれ一つずつですが、このヘッドとテープの接触面積が広ければ広いほど高画質高音質が出せるというのが従来の考えですが、そうしますと 必然的にテープの長さがひつようになります。当社は独自のデータ圧縮伝送技術によって多重音声データーを一つのヘッドで送れるようにしました。つまりハイファイであるのにヘッドは二つしかないのです。さらにテープへの接触部分を半分以下にすることによって従来のような長いテープが必要なくなり、従来の半分の長さのテープに、従来と同じ時間の録画と、従来以上の品質の映像を記録することに成功したのです。」
「再生するのに別のデッキは必要ないのですか?」
「非常に良い質問ですね。このハンディーカムの特徴は、これ一台でカメラとデッキと両方の機能を持っています。録画に必要なヘッドを減らした分、再生用のヘッドを搭載することに成功したのです。つまり、従来のようなテレビ番組の録画もテレビに接続していただくだけで出来ますし。また、持ち運びも非常にコンパクトな為に簡単です。こちらが従来のビデオカメラですが、これですとカメラとデッキと二つなければなりません。このように中を見て頂ければ解ると思いますが、テープの格納部分がスペースの大半を占めているのがお解り頂けるかと 思います。全体をコンパクトにするためにはテープそのものに新しい規格が生まれなければなりません。私共ソミーは、この8ミリテープという新規格を極めて低いロイヤリティーで競合他社にライセンスすることを決定いたしました。 以前のベータマックスでの失敗の原因は性能や品質ではなく、VHS規格とのロイヤリティー格差にあると私共は受け止めています。今後のハンディー市場は8ミリが主流になることを私共は確信しております。」

その日の仕事が終わった時、コチサはドッと疲れが出た。
<まさかあんな質問が来るとは思ってなかったわ、>
自分の説明で合っていたか不安だったので、急いでマニュアルを読み直してみた。
<よかった。当たってる。それにしてもよくピンチを切り抜けられたもんだ>
我ながら良くやったと思っていた。
<口からでまかせもまんざらハズレじゃないわね>

コチサが更衣室から出て帰ろうとした時に、一人の男に呼び止められた。
「君、ちょっといいかな」
にこやかに微笑みかけながらこちらを向く紳士は、非常に優しそうな顔をして、中肉中背といったところ。とても高価そうなスーツを着ているが、全く嫌みがなく、センスも抜群であった。頭には白髪が少し混ざっているので、おそらく40代くらいだと憶測できるが、年齢よりも若く見えた。
「君は益田沙稚子さんですね?」
「ハイ。」
「急に呼び止めたりして申し訳ない。私は佐伯と申します。」
その男の差し出した名刺には株式会社SOMY 営業担当取締役 営業本部長 兼 企画広報室長 佐伯 肇と書かれていた。
「もう夕飯はお済みですか?」
「えい、これからです」
「それはよかった。この近くに美味しいレストランがあるのですが、イタリア料理はお嫌いですか?」
「いいえ、好きですわ」
「よかった。少しお話したいことがあるので、ご馳走させて下さい。」
いつも男に誘われなれているコチサは、今日は約束があると言って断わろうとしたが、一瞬考えたのちに
「構いませんが、なぜ私を?」
「今日の君の活躍は素晴らしかった。昼間君が質問に答えた相手はアメリカン・エレクトロニクス・サイエンスという有名な専門紙の日本人記者だ。」
「あら、存じませんでした。失礼はなかったかしら」
「それどころか、正式な取材を申し込んで来たよ。おたくのショーコンパニオンが気に入ったとね」
警戒心と緊張感でこわばっていたコチサの顔にみるみる笑顔が広がった。
「その御褒美をさせてもらっては失礼かな?」
「いいえ。そういうことでしたら、喜んで御一緒させて頂きますわ」

その夕食はとても美味しかった。味は勿論だが、その男の話し方は不思議な魅力を持っていて聞いているうちにグングンと引き込まれてしまう。
とても紳士的でしかもユーモアのセンスも抜群だった。
デザートが出されたころには、気が付かないうちにコチサはいろんな事を楽しそうにしゃべっていた。話しの聞き方も実に上手いので、ついつい調子にのってしまい、相手が大企業の取締役だということをすっかり忘れてしまう。
「あ、ごめんなさい。あたしちょっとおしゃべりしすぎましたか?」
「いいえ。打ち解けてくれてとても嬉しいですよ。」
料理を全部平らげて、コーヒーが出された時に佐伯はさりげなく話題を変えた。
「君は、あのビデオカメラを今後もっと売れる様にするためにはどういう改良が必要だとおもう?」
「そうですねぇ。私だったら小さなモニターが付いていて、取ったその場で映像が見れるようなものがあれば便利だと思いますね。」
「なるほどね。それは便利そうだ。」
「あとはやはり、デジタルの技術を取り入れるべきではないでしょうか」
「ほほぅ」
「これからは音楽も映像もデジタル化が進むと思うんです」
「それはなぜ?」
「アナログでは、質的に限界に近いと思うのです。これ以上の品質を出すには記録、再生、伝送、すべてデジタル信号を使ってノイズのない正確なデータ転送が必須です。つまりデジタルビデオカメラです。」
男は満足そうに満面の笑みを浮かべてうなずいた。
<しまった。その道のプロに向かって私は何を偉そうなこと言ってるんだ>
コチサは急に自分の発言が恥ずかしくなった。
「君。うちの会社で働いてみないか?」
「はい!?」
突然の話しにコチサはビックリした。
「現在我が社では、女性だけのプロジェクトチームを組んでいるのです。このチームには、主に商品の広報戦略上非常に重要な仕事をしてもらっています。つまり、ブームに火を付けるためのアイデア部隊なのです。そこで君に思う存分力を発揮してもらいたい。」
いきなり切り出された話しにコチサは頭の中を急いで整理した。
「でも、いきなり言われても、、、」
「はは、そりゃそうだ。失礼しました。」
男は笑いながら話した。
「なにも今すぐ返事をもらおうという話しではないんだ。君にとっても相当やりがいのある仕事になると思う。無理にとは言わないが、是非一度考えて みてくれると嬉しいんだけどね」
「でも、私はまだ学生ですよ」
「知ってるとも。アナウンサー志望でしたね。君は非常に頭が良いし、考え方も申し分ない。それに、その、なんと言うか、つまり、美人と来ている。貴方の様な人材を獲得するのは企業にとっては非常に難しいのですよ。私達は競合他社を含め、提携企業や関連会社とも非常にデリケートな対外関係を保ち続けなければならないのです。貴方の様な人材をいつも探していました。 決して悪い話しではないと思いますよ。」
悪い話しではないことくらいコチサにも充分わかっている。なにせ今目の前に座っている男は、世界を股に賭ける大帝国を実際に動かしているエリートの中のエリート。この男の判断で何億というお金が一瞬にして右から左に動く。
この帝国で働く世界中に何万人といる従業員達と、その家族の運命は、この一握りの主力部隊の判断にかかっているといっても過言ではない。

その夜コチサは眠れなかった。確かに人生においてこんなチャンスが訪れることはまぐれにもない。今、大学で必死に勉強している昔の同級生達から見たら夢のような話しだ。
あのSOMYの本社企画広報室。その中でも選ばれた者だけが組織する特殊チーム。キャリアウーマンを目指す女性にとっては、まさに頂点に近い。確固たる将来と安定性が保障され、その上思う存分アイデアを実践に生かせる巨額の軍資金。人生を賭ける仕事としては申し分ない。
<広報かぁ、、、、>
コチサの今までの人生にとって、そんなことは考えたことも無かった仕事だ。
<せめて、コマーシャルのモデルだったら何の迷いもなく飛びついてるのに>
魅力的な仕事ではあるが、ただ、それは同時に自分の夢を捨てることになる。

それから数日間、悩みに悩んだ末にコチサは決心するのである。


《あ、もしもし、佐伯さんですか?》
《あ、益田さんですね。お電話お待ちしてましたよ。》
《この前のお話の件なんですが》
《おっと、その前に、僕はお腹がペコペコなんだ。和食は好き?》
《はい、とっても》
《じゃあ、迎えにいくよ。時間大丈夫かな?》
《ええ、今日は何も予定は入ってません。》

コチサはクラスメイトと交わした約束に、断りの電話を入れて佐伯との夕食を共にした。箸に手を付ける前にコチサの方から話しを切り出した。
「本当にごめんなさい」
「いや、いいんだ。そんなに謝らなくても」
「せっかくお誘い頂いたのに」
「残念だけどしょうがない。君の夢の方が大切だ」
「お気持ちは非常に嬉しかったです。それだけは・・・」
「いいって。それより食べないか?私はお腹がすいて死にそうだよ」
その日の夕食もとても楽しかった。コチサは断ったら相手はガッカリするだろうと思って、とても憂鬱だったが、佐伯はそんな様子を少しも見せず、にこやかに対応してくれた。
<この人は本当に優しいんだわ。奥さんはいるのかしら?>
「ねぇ、益田さん。」
「はい?」
「今度は仕事抜きでお会いしたいですね」
「はい、私も」
「本当?ミュージカルは好き?」
「ええ、よく見に行きます」
「彼氏と?」
「だと良いんですが」
「よかった。それなら今度の日曜日なんかどうだろう?」
コチサには断る理由がなかった。

日曜日はとても天気が良く、雲一つない晴天になった。
朝10時に、佐伯は車で迎えに来た。この前は会社の運転手付きのリムジンだったが、今日は自分のセダンで登場した。
「ミュージカル開演の夕方まで何をしようか?行きたいところある?」
「そうねぇ、、」
「永田町には行ったことある?」
「え!?ナガタチョウ?」
「そう、国会議事堂があるところだよ」
「いいえ、ないわ」
「よし、じゃあ今日は一風変ったデートをしよう」
コチサはなんだか訳のわからぬまま同意した。
車は官公庁が立ち並ぶ大きな通りを抜けて走った。
「さあ、着いたよ。これが国会議事堂だ」
「わぁ、こんなにまじかで見るのは初めてだわ」
コチサは自分の知らない新天地に足を踏み入れる事に、何だか少しワクワクしてきた。目の前に社会科の教科書に乗っていた写真と同じ建物が聳え建っている。衆議院のマークの付いた黒塗りのリムジンが目の前を通り過ぎたのを見てコチサは思わず叫んだ。
「わぁ、あの中に政治家が乗ってるの?」
「そうさ、だってここは議事堂だからね」
佐伯はコチサの手をとって関係者立ち入り禁止とかかれた入口に向かって歩き出した。
「ちょっと、佐伯さん。見学コースはあっちみたいですよ」
「いいから、いいから」
そんなことお構いなしといった具合に笑いながらどんどん中に入っていく。
案の定、警備員の一人が近づいて来た。
「もしもし、おたくさんはどこのどなたですかな?」
「私は佐伯と言う者です。○○○先生に連絡してもらえますか?」
「しばらくお待ちを」
しばらく待たされた後、警備員は年配の男を連れて戻って来た。その年老いた男の胸には議員バッジが付いていた。
「やあ、佐伯さん。議員会館に来てくれれば良かったのに」
年配の男は笑顔で話し掛けながら近づいて来た。
「いやいや、今日はちょっと見学しにきただけですよ」
「あはは、そうですか、」
そういいながらコチサの方をチラっと見た。
「こちらは益田沙稚子さん。私の優秀な秘書です」
老人はにこやかにコチサに向き直り
「始めまして、○○○と申します。ようこそ議事堂へ」
「あ、はい。始めまして」
コチサはその老人をニュースで見た覚えがある顔だと気付いた。その老人から受け取ったカードを安全ピンで二人は胸に付けて議事堂探検を始めた。
<この人は顔が広いんだわ>
議事堂の中はふかふかの赤い絨毯がいたるところに敷き詰められ、天井は高く、これでもかというくらい、格式の高そうな装飾がいたるところにしてある。
本会議場に足を踏み入れたコチサはその広さに圧倒された。ニュースの国会中継で良く見るが、テレビで見るよりも遥かに広い。
<ここが日本の中心地、いや、アジアの中心地なんだわ>
1億2千万人の人間の生活に関わる全てのことがここで決まる。まさに国家権力の象徴とも言うべき国会議堂の中に自分がいると思うと、なんだか不思議な気持ちだった。
「ほら、あそこを見てごらん」
佐伯は高い天井まで続く壁の上の方を指差した。壁が四角くくり貫かれ大きな窓のようになっている。真紅のベールを両脇で止めた中に、大きく豪華な椅子が一脚置いて有る。
「なに?あれは?」
「ロイヤルボックスさ。本物の」
「ロイヤルボックス?」
佐伯はヒソヒソ声でコチサの耳元でささやいた。
「そう、あそこに××××××が座っていたわけだ」
「×××?」
こちさはしばらく間を置いて、佐伯の言ってる意味がようやくわかってクスッと笑った。
「ああ、×××××」
「いや、違う。「×××××」だ」
「失礼しました。××××××××?」
「よろしい」
二人はクスクス笑った。
議事堂の中は探検のし甲斐があった。下手な遊園地なんかよりもずっと面白い。
なにせ、さっきの爺さんにもらったカードのバッジの威力ときたら、とにかく議事堂の中なら何処へでもフリーパスで歩き回れる。二人にとってそこは大きなアミューズメント城となっていた。
<というよりも、一緒に探検する相手によるかもしれないわ>とコチサは思った。
「この議事堂の中では、迷子になっても方位磁石が使えないんだ」
「どうして?磁石を使ってはいけない規則でもあるの?」
「いや、違う。この議事堂の地下には鉄の固まりが埋めてあるんだ」
「へぇ、何のために?」
「何のためって、地震が来ても潰れないようにサ」
「ここは潰れないの?」
「絶対に潰れない。この地下には戦艦大和と武蔵を両方足した位の鉄の固まりで基礎を打ってあるんだ。関東大震災の2倍の震度まで耐えられる」
「すご〜い」
「ここが潰れたら世界中がパニックだろ?」
「なるほどねぇ」
<この人は何でも知ってるんだわ>
その老人にもらったバッジは外務省でも通産省でも、とにかく官公庁という官公庁なら何処へ行っても威力を発揮した。
今まで教科書とニュースでしか見たことのない国家権力の巣を二人で縦横無尽に歩き回り、コチサはなんとも言えぬ興奮を味わった。
<ここが世界の東京なのね>
夜のミュージカルではコチサは感動して泣いてしまった。
ミュージカルを見終わった二人は高層ホテルの最上階のレストランで夕食を共にした。二人のおしゃべりはミュージカルの話しから、昼間見た議事堂の話しに移り、はてまた政治の話しにまで広がった。
「私、こんなにエキサイティングな一日を過ごしたのは東京に来て初めてよ」
「そう言ってくれるととても嬉しいね」
「いや、生まれて初めてかもしれない」
「君を連れていってあげたいところはまだまだあるんだけどな」
「まぁ、連れてって。ワクワクしちゃう」
「好奇心旺盛なんだね」
「だって、こんな経験出来るのは、私の田舎では私だけよ。きっと」

その夜コチサは楽しかった一日を振り返った。彼女は知らずに佐伯に惹き付けられている自分が不思議だった。
<私は、おじさん好みじゃないんだけどなぁ>
そういえば東京に来てからデートらしいデートはしていなかった。考えて見るとまだまだ東京にも行ったことがない場所が沢山あった。
<慌ただしい一年だったから、暇もなかったし>
コチサは東京に住んでいるという実感がふつふつと沸いてきた。
<そう、ここは世界最大の都市。世界一の総面積と人口を誇る巨大メトロポリス。世界の東の端に位置し極東と呼ばれ、世界で一番最初に日が登る国。経済大国日本の首都、世界の大東京。夢と希望の街。チャンスを掴む街。私は今、凄い所に住んでるんだわ>

それから二人は頻繁に会うようになっていた。一週間の大イベントも滞りなく順調に終わり、コチサはホッとした。というのもあのしつこいナンパ男が毎日のようにいやらしくコチサに声を掛けていたので、あの男から開放されるだけで嬉しかった。
佐伯との中は日を追うごとに親密になり、ふとした会話で彼が独身であることを知るとコチサは益々佐伯に惹かれていった。
二人はいろんな事を話した。子供の頃のことや将来の夢など。彼が交通事故で前の奥さんを亡くして、子供もいないことも知った。

ある日、佐伯がパーティーに同伴して欲しいと誘ってきた。コチサは二つ返事でOKした。大切なパーティーなので、一人で行くのは気が引けるという彼の言葉にコチサは嬉しくなった。
<大切な社交の場に私を連れて行くってことは・・・うふふ>
コチサは自分の持っている服を引っ掻き回して、あれやこれやと選ぶのに二時間かけて、いつもの倍の時間をかけてシャワーを浴び、いつもの3倍の時間をかけて化粧をし、前髪をブローするのにいつもの4倍の時間がかかった。
場所は都内有数のシティーホテルで行われ、会場は映画でみる社交界のようにきらびやかだった。各界著名人が参列し、政治家もいればテレビで良く見る芸能人もチラホラいた。
自分が一番みすぼらしい格好をしているのではないかと思った。
<もっと派手な服にすればよかったわ>
佐伯が優しくエスコートしながらそっと耳元でささやいた。
「君が一番エレガントに見える。私はああいうケパケパしいのは嫌いなんだ」
コチサはその言葉を聞いて益々彼に体をくっつけた。
<この人は、なんて優しい人なんでしょう>
来賓の挨拶も終わり、シャンペンやワインを片手に団欒が盛り上った。
最初は、佐伯が紹介してくれる人物の凄さにいちいち感激していたが、次から次へといろんな人に紹介されて、コチサはもう誰が誰だか全然わからなくなっていた。
そんな中、ふと佐伯の肩越しに壁の方に目をやると、この場に一番いて欲しくない人物がコチサの目に飛び込んで来た。
<げ、、なんであのスケベ男がここにいるのよぉ>
相手はまだコチサに気付いていなかった。コチサはこのまま気付かないで欲しいと切実に心の中で祈った。
<もし、アイツが私に気付いて声を掛けて来ても絶対無視しよう>
男の存在に気付いてしまったコチサは、とにかく早くパーティーが終わってくれと祈るばかりで、段々落ち着きなくそわそわしはじめた。
「あ、そうだ。君に紹介したい男がもう一人いるんだ」
佐伯が思い出したように言った。
「確か今日、あいつも来ているはずなんだけどなぁ」
佐伯は会場をキョロキョロと見回しながら、やっと見つけたという感じでコチサの手を引っ張って人込みの中を突っ切った。
その途端、コチサはパニックになった。彼がコチサの手を引いて突進していく前方に、あの男がいるではないか。向こうもどうやら佐伯に気付いたらしくこちらに手を上げている。
「やあ、佐伯さん。お久しぶりです。」
「おお、やっぱり来てたか。元気か?調子はどうだい?」
「はい、おかげさまで」
「紹介するよ。この子は益田沙稚子さん。実は君の所でコンパニオンしてた子だぞ」
コチサはますますパニックだった。
<君のところでコンパニオンしてたって?なに?どういう意味?>
「益田さんですか。始めまして、私は高橋と申します。以後お見知り置きを」
男はまるっきり初対面だという素振りで握手を求めてきた。
コチサはキッと男を睨みつけながら無愛想に握手をした。
「沙稚子さん。彼は非常に優秀な青年実業家なんだ。」
「あ、そうですか」
<コイツのどこが優秀なわけ?>
「ほら、君と私が初めて知り合った、あのエレクトロニクスジャパンの仕掛け人がこの人だ。彼のところは飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長サ」
「いや、急成長だなんて、佐伯さん。経営状態は火の車ですよ」
コチサは頭をフル回転させて、今目の前でかわされている会話の意味を理解しようと努力した。
「なぁ、高橋。名詞を一枚この子にあげてくれよ」
「どうぞ」
そう良いながら男が差し出した名刺には株式会社東洋エンタープライズ 代表取締役社長 高橋 誠と書かれていた。
<こ、この男が東洋エンタープライズの社長?>
「彼はまだ若いが、凄い実力の持ち主なんだぞ」
コチサは穴があったら入りたいくらいだった。
東洋エンタープライズと言えば彼女の所属するコンパニオン派遣会社では今やお得意さん。数々の話題性のあるイベントを成功させ、数々のヒット商品を仕掛け続ける。商業コンサルティングでは、今、業界切ってのヒットメーカーである。
あの幕張でのイベント以来、コチサの所属する会社はこの会社なしでは食っていけないほどお世話になっているところだ。コチサは、あのイベントの時に高橋に対して毎日のように吐いた暴言を思い出した。
”仕事の邪魔です。あっちに行って下さい!”
”気軽に声を掛けないで下さい。私は貴方が大嫌いです!”
”お願いだから私の前から消えてくださらない?”
コチサはその場にいるのが恥ずかしかった。こんな羞恥を味会うのは子供の時以来である。コチサは高橋の顔をまともに見ることが出来なかった。

その夜、コチサは家に帰ってもなんとも気分がムカついた。
<なんなのよ、あの男は!>
高橋の顔を思い出すだけでも腹が立った。
<スケベ面して、なぁにあの態度!人を小馬鹿にして!>
コチサは気付かぬうちに大きな声で独り言を言っていた。

冗談じゃないわ!なにが青年実業家よ!変態男!
だいたいなによ。偉そうに!
最初から私を馬鹿にするつもりだったんだわ。きっと。
自分の身分隠しちゃってサ!水戸黄門でも気取ってるつもりなの?あれ。
何度声をかけても私が相手にしないもんだから、 私に恥じを欠かせる為にわざとあんなことしたんだわ!
冗談じゃないわ!
私は佐伯さんと一緒にいたのよ。どう?これでもう手出し出来ないでしょ!フン!
ざまぁみろ!
佐伯さんの爪のアカでも煎じて飲んだ方がいいわ。あんな男!
ああ、せっかくの素敵なパーティーだったのに最低!




ある日、またもやバイト先の社長からお呼びがかかった。今度はコチサ一人だけだった。
「君は実に評判が良いよ。いや本当に」
「ありがとうございます。」
「実は、先方から益田君をご指名されてね、次のイベントは」
「ちょっと待って下さい!」
コチサは社長の話しをさえぎった
「まさか、東洋エンタープライズじゃないでしょうね」
「いや、そうなんだが、何か問題でも?」
「そのお話、私断りたいんですが」
「何を言ってるんだ?君!なんか変なことでもされたのか?」
「いえ、そうではなく、あの会社好きじゃないんです」
「何を子供みたいな事を言ってるんだ。明日早速打ち合わせだから宜しくな!」
コチサは憂鬱だった。あの女タラシの下で働くことが生理的に受け付けない。
<この仕事を最後にこの会社を辞めよう>
コチサは心の中で決心した。

イベント会場に入ったコチサは、慌ただしく動く作業員達にぶつかりそうになりながら担当者の説明を聞いていた。
突然彼女の後ろで物凄い剣幕で怒鳴る男の声が響き渡り、思わずコチサは振り向いた。そこには作業員に向かって激怒する高橋の姿があった。
「なんだこのセットは!図面を良く見ろボケ!」
「すみません。しかし、、、」
「しかしもへったくれもあるか!このクソヤロー!これじゃ明日のオープニングに間に合わねーじゃねーか!タコ!」
「でも、これが精いっぱいの、、、」
「なぁに?これが精いっぱいだとぉ?」
60代半ばと思しき大道具の職人の胸座を掴んでいきり立っている高橋をみて、コチサは思わず叫んだ。
「ちょっとぉ、その人だって一生懸命やってるんだから、そんな言い方ないんじゃない?」
「なに?」
高橋は声の主がコチサであるのを見つけ、静かに太い声で言い返した。
「女は黙ってろ!」
コチサはこの一言で切れた。
「女だからって馬鹿にしないで下さい!私もさっきからこの人達が働いているのを見てますが、とても一生懸命間に頑張ってるじゃないですか! 悪気があってわざと失敗したわけでもないのに、そんな怒鳴り方ってちょとヒドイと思うんですけど!」
高橋は急に真顔になってコチサに向き直った。そしてしばらくコチサをじっと見つめた後、いきなりメガホンを持って会場中に聞こえるように大きな声で叫んだ。
「おーい!作業を中止して全員降りてこい!」
作業員達はブツブツといいながら高橋とコチサを囲んで円になって集まった。
全員集まったところで高橋が話しはじめた。
「この中で一生懸命やってない奴いるか?」
会場はしーんと静まり返った。
「この中で悪気があってわざと作業を送らせている者いるか?」
会場は静まり返ったままだ。高橋は全員に聞こえる様に大きな声でコチサに向かって話しはじめた。
「あのなぁ、ねーちゃん。一生懸命やってない奴なんてのはここには一人もいねーんだ。悪気があって作業を遅らせている奴もいねー。そんなこたぁこっちは百も承知の上で仕事してるんだ。誰が一生懸命やれって怒鳴った?え?俺は仕事の結果に対して怒ってるんだ。これはビジネスだ。 あんたみてぇに学生のバイトとは皆訳が違う。生活がかかってるんだよ!一生懸命仕事するのは当り前。悪気があって仕事を送らせる奴がいたら怒鳴る前に家に帰してるよ。ただ、こっちも体張って仕事して、こいつらに 給料払ってんだ。依頼した通りの結果が出せなければ給料は払えねぇ。そしたら困るのはこの職人さん達とその家族だ。ここは学校の学園祭の会場じゃねぇ。一生懸命やったからって誰にも誉められねぇ。今この会場には16社の下請け業者が同時に仕事してる。その中のたった数人の失敗で全員の生活が脅かされる訳だ。あんたは給料もらえなくたって親にかじりつけば米でも送ってくれるだろうさ。でも、他の皆はそうはいかねぇ。こっちの指示通りの結果を出してくれりゃぁ、俺は文句言わずに金を出す。例えイベントが失敗したとしても、俺が全責任を持って金は払う。俺たちゃ死ぬか生きるかの命懸けの仕事してんだ。横から変な感情に流された意見を言われちゃ困るんだよ。こっちは結果に対してのみ金で評価する!全て結果勝負だ!」
コチサは半べそをかいたまま黙っていた。
<この人の方が正しいわ・・・>
コチサは余計な口出しをしたことを後悔した。

イベントはいつも以上に大成功だった。
そのイベント終了の翌日。例の怒鳴られた職人の働く舞台装置の下請け業者には、契約書に書かれた金額の倍の現金が振り込まれた。
(コチサ註:100%こんなことはありえないわ、金額よりもイベント終了の翌日払い?こんな夢のような話があったらコチサ復帰したいわ)
そして、コチサを含め、そのイベントに携わった関係者全員に臨時ボーナスが支給された。
<全て結果勝負か・・・>
コチサは、自分の実力をかって指名してくれた高橋に対して、不純な気持ちを抱いていた自分が情けなかった。

辞めると誓ったバイトだったが、結局ズルズルと続けてしまった。
「益田君は、東洋の仕事はダメなんだっけ?」
ある日社長が声を掛けてきた。
「また、ご指名が掛かってるんだが、断ろうか?」
「いえ社長。是非お引き受けしますわ」


ある日バイトの休憩時間にコチサが缶ジュースを飲んでいると、高橋がコチサを見つけて近づいて来た。
「よぉ、ねーちゃん。調子はどうだい?」
「おかげさまで」
コチサは無表情のまま答えた。
「どうだい?今夜。そろそろ飯くらいおごらせてくれてもいいんじゃない?」
「大変ありがたいお誘いですが、私には貴方に食事をご馳走になる理由が ありません。他の子をお誘いになったらいかがですか?」
コチサはいつもの調子で冷たくあしらった。
「理由ねぇ、、、よし、じゃあこの前怒鳴ったお詫びってのは?」
「いいえ、あれは私が悪いんです。」
「あら、意外と素直な子だねぇ。」
「ありがとうございます」
「でも、マジであの一件のお陰で現場の士気がビシーっとしまってよぉ、、お陰でイベントは予想以上の大成功サ。これも君のお陰さぁ。。。こいつのお礼ってのはどうだ?」

コチサは思わず口元がほころんでしまった。「そうそう、あんたはそうやって笑ってた方が良い女だぜ」
あまりのしつこさにコチサも根負けして、とうとう誘いを断り切れなかった。
<ま、一回ご飯食べるくらいなら・・・>

高橋との夕食は予想に反して面白かった。イタリア料理ではなくラーメン屋のレバニラ炒め定食ではあったが、とにかく高橋の連発する冗談にコチサは何度も笑いをこらえてむせた。
「一杯くらい付き合えよ」
高橋が無理矢理ビールを薦める。
「いえ、本当にアタシお酒ダメなんですよ。」
「まま、そう言わずに、、、おじさーん!グラスもう一個」
一杯だけのつもりがついつい高橋に乗せられて結構飲んだ。コチサは何年かぶりで腹の底から笑った。
「そろそろ出るか、、車で送ってくよ」
「ダメですよぉ、高橋さん飲んでるじゃないですかぁ」
「バカヤロー、誰が自分で運転するって言ったよ」
「へー、高橋さんも運転手雇ってるの?」
「違う、タクシーだ」
「キャハハハハ、、、あたしってバカねぇ」
コチサはとても気分が良かった。いままで高橋に抱いていた嫌悪感が嘘のように親しみを覚えた。ほろ酔い気分でタクシーに揺られ、知らない内にコチサは高橋の肩によりかかっていた。
「運転手さん。やっぱり赤坂に向かってくれる?」
いきなり高橋が運転手に行き先を変えるように頼んだ。
「赤坂全日空ホテル」
コチサの耳にもハッキリと聞こえた。
<ダメよ。ホテルなんて>
コチサはその場で降りようとすれば、そう出来るくらいの思考能力は残っていた。
それほどベロベロに酔っている訳ではない。
<降りなきゃ、このままではいけないわ>
しかし、なんのアクションも起こさない自分が不思議だった。
<あたしは、一体何をやってるの?>
<このままホテルに行けばどうなるかわかるでしょ?>
とうとうホテルに着いた。奇麗なロビーでチェックインの受付けを済ませ、エレベーターで上がる間コチサは一言もしゃべらなかったが、心の中では必死に自分に言い聞かせていた。
<あなた、自分でなにをやってるかわかってるの?>
とうとう部屋についた。
家に送ったところでそのまま倒れて寝てしまうだけのコチサを風邪引かないようにと気遣った高橋は、コチサに充分な休息が出来るようふかふかのベットを提供してくれた。
<あたしったら、何考えてんだろ、こんな酔っぱらいのくせして・・・>部屋に入った瞬間に、疲れと緊張と解き放たれた安心感で熟睡してしまった。

朝起きて高橋の部屋の内線を回しても誰も出ない。おいてけぼりを食らったのかと一瞬思った。
<何よ、声もかけないで帰っちゃうの?>
そう思った瞬間に部屋のドアが開いて高橋が入ってきた。
「おはようベイビー!」
入って来るなり大きな箱をベッドの上に放り投げた。
「おい、服脱げよ」
コチサはキッと高橋を睨み付けた。
「これ、気に入ってくれるといいんだけどなぁ」
そう言いながら高橋は大きな箱を開けると、なかから白地に花柄の模様の付いたかわいらしいワンピースが出てきた。
「ほれ、着てみろ」
「え?これ私に?」
「そうだ、だって昨日の服くしゃくしゃだぜぇ」
コチサは洋服を鏡の前で体に当ててみた。
「かわいい!」
そう良いながら裏に貼って有るブランド名のラベルを見てビックリした。
「ちょっと、コレ、高かったんじゃない?」
「え?安物さ」
<そうだ、この人は東洋エンタープライズの社長だったんだわ>
サイズもコチサの体にぴったりだった。
「よくサイズが解ったわねぇ」
「いや、はずれた時の為に予備も用意している」
<この人はいつもこうやって女の子を喜ばせるのね。きっと。>
二人はルームサービスを頼んで朝食を取った。
「学校に行かなくちゃ」
「あ?何言ってんの?今日は日曜日だぜ?」
「え?あ、そっか。忘れてた」
二人はそのまま街に出かけた。高橋の提案で浅草に行く事にした。
<そう言えば、浅草ってまだ行ったことないなぁ>

浅草の浅草寺の仲見世通りはとても風情があって、東京の古き良き時代を思わせるような、なんとなく懐かしい雰囲気をかもし出している。
「おい、これ見ろよ」
高橋はふざけて、お土産やさんで売っていたちょんまげのカツラを被ってコチサを笑わせた。二人の歩く姿は何処からみても恋人同士だった。
<佐伯さんと一緒の時は、よく親子に間違えられるっけ>
「なぁ、俺アンタのこと何て呼べばいい?」
「あ、コチサって呼んで」
即座にそう答えた自分が不思議でならなかった。
<佐伯さんは沙稚子さんって呼んでたわ>
「ねぇ、高橋さん?」
「おいおい、その高橋さんってのやめてくれる?」
「じゃあ、なんて呼べばいいの?社長さん?」
「カンベンしてよ。誠で結構」
いくらなんでも、年上の男に向かって呼び捨ては出来なかった。それに、相手はバイトの取引先の社長だ。
「じゃあ、誠さん。」
「なに?」
「お昼ご飯もご馳走してくれません?」
「はいお嬢様。喜んで」
夜になるまでに二人は良く笑った。コチサも高橋といると楽しかった。
「あたし、そろそろ帰って練習しなくちゃ」
「え?何の練習をするの?」
「ダンス」
「ああ?そんなこともするのか?」
「私、物凄くダンスが下手なの」
「よし、じゃあ良いもの見せてやるよ。付いて来いよ」
高橋の歩くままコチサは後を付けていった。二人がたどり付いたのはロック座だった。入口に大きく「浅草ロック座」と看板が出ている。
「ちょっとぉ。ここストリップ劇場じゃない!」
「そうだよ」
「あたし、女よ。こんなところ入れないわ」
「まあ、いいから一回見てみろって」
高橋に無理矢理手を引っ張られ、コチサは中に引きずり込まれた。
中は薄暗くて、ちょうどショーとショーの間だったようでステージの上には誰もいなかった。中腰になりながら高橋はコチサの手をぐいぐいと引っ張り、ステージの真ん前の席に二人で座った。
「これってスッポンポンになるんでしょ」
コチサは小声で高橋の耳元できいた。
「いいから黙って見てろ!」
周りは男達ばかり。中年サラリーマンに混ざって若い人もいた。しかし女性で中にいるのはコチサだけである。男達の好奇の目がコチサに注がれる。後頭部に熱い視線が集中してるのが解る。
突然薄暗い会場の中が一層暗くなり真っ暗になった。コチサは目を開けてるのかつむっているのかわからないほど何も見えなくなった。
と、その時大音響のサウンドに乗せてフラッシュの様な白く眩しいひかりがパッパッと光初めて、ステージ上にとてもかわいらしい女の子が登場して踊り始めた。
その途端にコチサの全身に鳥肌が走り、なんとも言えぬ感動が襲ってきた。
少女は一枚ずつ着ているものをはがし、最後には素っ裸になって足を高々と上げて踊り狂う。男達の視線が少女の股間に集中する。だが、そのダンスがなんとも言えず見事なのである。
<す、すごい・・・>
曲が終わると、また別の子が出てきた。今度は激しく腰をシャッフルしながら怪しげにくねくねと回りはじめる。
<知らなかった。。。ストリップがこんなに凄いものだなんて>
体全身を使ってセクシーな踊りを繰り広げ、なんとも言えぬエロチズムをかもし出す。大音響と見事な照明の操作がもたらす鮮烈なビジュアルに、なんとも言い表せない快感が脳裏を刺激する。
<なんか私、トリップしそう・・・>
まるで幻覚でも見ている様な不思議な時間が流れた。

ストリップ劇場を出た途端にコチサが口を開いた。
「凄かったぁ〜」
「だろ?」
「あの子達は素人さん?」
「いや、プロだ。彼女達の練習量はハンパじゃないよ」
「でしょうね。。。」

その夜コチサは興奮して眠れなかった。
高橋の思いもよらぬ一面。ホテルでの朝の突然のプレゼント。笑い転げた仲見世通り。最後に見たストリップ。
今日一日はとても刺激的だった。毎日の単調な生活パターンを、いきなりナイフで切り裂かれたような。。。
なかなか寝付けないコチサは、家にあったたった一本のワインを開けてグラスに注いだ。その時、留守番電話のランプが点滅しているのに初めて気付いた。メッセージが一件だけ入っていた。
《もしもし、佐伯です。帰ったら電話下さい。待ってます》
コチサは佐伯の家の電話番号を押しはじめたが、途中で止めて受話器を置いた。


それからというもの、コチサは時間を見つけては高橋と頻繁に会うようになった。
佐伯からの電話は毎日のように留守電にメッセージが入っていた。コチサは連絡するのが恐かった。
<このままじゃいけないわ。私、自分が一番嫌いな女やってる。。。>
高橋と一緒にいる時はとても楽しかった。佐伯とはまた違う魅力を持っていた。
二人はよる遅くまでいろんな事をお互いに話した。高橋は子供の頃に父親をなくし、母親はしばらくして男をつくって彼を捨てた。だから彼はずっと施設で育ったのである。彼は定期的に孤児院に匿名で寄付をしていた。そんな彼の意外な一面を知ったコチサはますます高橋に惹くかれていった。

高橋とのデートは佐伯とはまた違った醍醐味があった。生まれて初めて行った競馬場。馬が走る姿があれほどまでの美しいとはコチサはしらなかった。
六本木にある有名なディスコでは、彼の顔の広さと女友達の多さにビックリするのと同時にヤキモチをやいた。
高橋は改めて良く見ると、とてもハンサムだという事に気付いたのは、あるイベントで彼が挨拶をする事になった時だった。そのイベントはゲームメーカーやアミューズメント関係の業者が一同に会する一大エンターテイメントショーだった。彼の会社、東洋エンタープライズがあるテレビゲームソフトをヒットさせた仕掛け人ということもあって、会場での挨拶をスポンサーから強く要望されていたのだ。その日高橋はエレガントに正装し、髪をキチンと整えていつもと違った雰囲気で会場に現れた。
女性ファンが彼を取り巻く中、コチサは少し離れたところから彼を眺めながら思った。
<この人がモテるのは当り前だわ。だって、本当にハンサムですもの>
雑誌のインタビューに熱く語るように答える彼を見て、<まるで芸能人ね>と思わずにはいられなかった。
<一体、あの人はこの女の子達の何人とベッドを共にしたのかしら?>

コチサの悩みはますます深まった。家に帰って佐伯からのメッセージを聞くたびに憂鬱で胃が痛くなった。
どちらも魅力的で、コチサは二人とも好きだった。自分にとって、本当に愛すべき人はどちらなのか解らなくなってきた。でも、このままうやむやなまま続ける訳にはいかないことも分かっていた。
コチサはこの事を誰かに相談したかった。とにかく相談相手が欲しかった。
そのことを相談しようと思って、クラスメートのゆみの家に電話をするのだが、ここ最近、何度電話しても繋がらない。彼女は学校にも最近来なくなっていた。

ある日、学校の授業が終わったところで、数少ない同期の男友達の良夫から呼び止められた。彼とはとても仲がよかった。学校の中で、本当に打ち解けて話しが出来たのは、ゆみとこの良夫だけだった。でも、コチサの悩みは異性ではなく、同性であるゆみに話したかった。
良夫はコチサを見つけるなり突然言い出した。
「なあ、コチサ。ちょっと話しがあるんだけど」
「なぁに?」
「いや、ここではちょっと、、」
「何よぉ、いいなさいよぉ」
「俺、学校辞めるんだ」
「え?なんでなんで?」
「俺さぁ、テレビドラマに出演が決まったんだ。」
彼は、以前から劇団に入っていて、役者になるのが夢だった。
「すご〜い。なんてドラマ」
「いや、連続ものじゃないんだけど、月曜ドラマスペシャルっていう番組」
「へー、、」
「そんで、劇団の知り合いのコネでプロダクションに入れそうなんだ」
「あら、凄いじゃない」
「今後、少しづつだけど仕事ももらえそうだし、、だから学校は辞める」
「あらぁ、寂しくなるわ。」
「そう言ってくれると嬉しいよ。俺友達少ないから」
「じゃあ、お祝いを兼ねて二人で送別会しようよ」
「いいよぉ、そんなの」
「あたしがおごっちゃう。つぼ八だけど」

二人は居酒屋のテーブルを挟んで乾杯した。
「良夫の人生の第二部の幕開けにカンパーイ!」
「おお、その人生の第二部って言い方、カッコイイねぇ」
「ねぇねぇ、それでドラマはどんな役なの?」
「結構沢山台詞もらったんだぜ」
「だからぁ、なんの役なのよぉ?」
「あのねぇ、主役の女の子の彼氏の・・」
「ぅわースゴイ!そんなの主役みたいなもんじゃない!」
「違う違う。最後までちゃんと聞けよ」
「だって主役の恋人役でしょ?」
「そうじゃなくって、主役の彼氏に憧れるホモの後輩の役」
「ブッ!!」
思わずコチサはライムサワーを吹き出した。
「なにそれ?」
「笑うなよぉ」
「でも、台詞もらえるなんて立派なもんじゃん」
「うん、でもどうせならもっとまともな役やりたいよなぁ」
「でも、良夫にはそういう役が似合ってるよ」
「どういう意味だよ」
「キャハハハ、そういう意味よぉ」
二人は思い出話しに花をさかせた。東京に出てきて最初に出来た友達がユミと良夫であった。三人はいつも一緒に食事をして、いつも誰かの家に集まって稽古をし、いつも一緒に夢を語り合っていた仲だった。
「ねぇ、この場にユミもいてほしかったわネ」
「ああ、でも、彼女、最近本当に見ないね。どうしたんだろう」
「そうなのよねぇ、私も何度も電話してるんだけど、全然繋がらないのよぉ」
「なんか、風俗嬢になったって噂だぜぇ」
「あんた、何言ってるの?そんなのデマに決まってるでしょ」
「はは、いや、俺だってそう思ってるさ」
「でも、本当にどうしたんだろう?」
「田舎に帰っちゃったのかなぁ」
「でも、そしたら連絡くらい入れない?私達に」
「ん〜・・・」

二人は居酒屋を出た。
歩き始めた瞬間にコチサが言った。
「ねぇねぇ、もう一軒行こうよ」
コチサはもうしばらく親友と一緒にいたかった。「でも、俺金ないぜぇ」
「大丈夫!私バイトの給料ガッポリもらったばかりだから」
二人は並んで新宿の街を歩いた。途中でたこ焼きを1パック買って、二人で食べながら歩いた。
歌舞伎町の脇道へそれたところにピンクサロンとファッションヘルスの並んいる通りがある。店の前では呼び込みの店員が道ゆくサラリーマンに声を掛けていた。
「良夫もこういうお店に隠れていってるんでしょぉ」
「バカヤロー、そんな金俺にはないよ」
「はは、またそんなこと言っちゃって」
「俺は××××で充分」
「普通レディーの前でそういう事言うかなぁ」
「え?誰がレディーだって?」
「あんたねぇ、、あたしこう見えても結構モテるのよ」
「へー、、物好きもいるんだねぇ」
二人で冗談をいいながらからかっていたその時、通りかかったファッションヘルスの黒いスモークのかかった自動ドアが開いて、中から太った中年サラリーマンが出てきた。それと同時にそのサラリーマンの背後から聞き覚えのある女性の声がコチサの耳に聞こえた。
「ありがとうございました〜」
コチサは反射的に声のする方を見た。自動ドアが閉まる寸前に声の主の顔が一瞬だけ見えた。
<ゆみ・・・>
いかにも水商売風に化粧をし、ファッションヘルスの征服であるミニスカートの短いワンピースを着て、別人のようではあるが紛れも無くあれはユミであることがコチサには解った。

良夫と別れた後、コチサはユミの事が頭から離れなかった。
<あれは人違いでありますように・・・>
向こうはこっちに気付いていたのかどうかはわからなかった。でも、人違いである万に一つの可能性に賭けて、コチサはユミのアパートに行かずにはいられなかった。

アパートには電気は付いていない。呼び出しインターホンを押しても応答はなかった。どうやらまだ帰って来ていないらしい。
コチサは、玄関の前でしゃがみこみ、ユミの帰りを待った。
ユミは深夜2時近くになってようやくタクシーで帰ってきた。コチサを見るなり悲しそうな微笑みをむけて小さな声で言った。
「コチサ・・・お久しぶりね」
二人はアパートの中に無言のまま入り、テーブルを挟んで向かい合って座った。
コチサは久しぶりに訪れた友人の部屋の様子の変りように少し驚いた。
いたるところに派手な洋服がぶら下がっていて、テーブルの上は化粧品でいっぱいだった。
ユミは無言のまま煙草に火を付けた。
<煙草を吸う子じゃなかったのに・・・>
しばらく部屋は静まり返っていたが、コチサの方から沈黙を破った。
「元気だった?」
蚊の鳴くような小さなこえだった。
「うん。元気よ」
「最近、学校にも来ないからどうしたのかなーと思って」
「うん。仕事が忙しくてね」
またしばらく沈黙が続いた。先に声を出したのはまたコチサだった。
「なんの仕事してるの?」
「・・・コチサ。白々しい聞き方はよして」
「・・・・・」
「さっきあなた見たじゃない。良夫と一緒に」
「・・・・・」
「あれがアタシの仕事よ」
また、しばらく気まずい沈黙が続いた。
「良夫ね。学校やめるんだって」
「知ってるわ」
「え?誰に聞いたの?」
「良夫、うちのお店に来たわよ。お客で」
<なんで言ってくれなかったのよ!良夫>「ドラマに出るんでしょ。プロダクションに入るんでしょ」
「うん・・・」
「よかったじゃない。夢に近づいて」
「うん・・」
<良夫は本当は言おうとしてたんだわ。アタシにユミの事を、、、>
<でも、言い出せなかった。だからわざとあの道を通ったのね、、、>
「ねぇ、ユミ。学校来ないの?」
「多分、、もう行かないわ」
「どうして?アナウンサーになる夢はどうしたの?」
「・・・・」
「一緒に頑張るって約束したじゃない!」
「・・・・」
「ねぇ、ユミー。。なんとか言ってよ!」
「・・・・」
「ゆみぃ!どうしちゃったのよアナタ!」
コチサは泣き出した。
「ゆみってばぁ!」
コチサは涙がとまらなくなった。今目の前にいるのは、コチサの知っているユミではなかった。厚い化粧をして、煙草をふかし、変わり果てた親友の姿を見て無性に悲しくなった。
「ゆみぃ〜・・・」
「ほっといてよ!うるさいわねぇ!」
突然大声で怒鳴り付けられたコチサは一瞬面食らった。
「コチサ、あんた本当にアナウンサーになれるとでも思ってるの?」
「え!?」
「いつまでも夢なんて追いかけられないのよ!アタシは!」
「・・・・」
「現実はそんなに甘くないわ!アタシはお金が欲しいの!」
「・・・・」
「今しか稼げないのよ!若いうちだけなのよ!」
「ゆみ・・」
「あんたは幸せだよ。自分に才能があるって信じてるんだろ?」
コチサは声にならないかすれた声で呟いた。
「ゆみ・・・それが貴方の本心?」
「もう帰って!挫折したアタシを笑い者にしに来たの?」
「そんなつもりじゃ・・」
「ほっといてよ!もうほっといて!」
ユミは叫ぶように言いながら床の上に崩れて泣き出した。
コチサはしばらくユミの震えるせなかを見下ろしていたが、スクっと立ち上がって玄関から静かに出ていった。
一人ぼっちになった部屋で、ユミは泣きながら謝った。
「コチサごめんね。コチサごめんね。コチサごめんね。」


コチサは一晩中泣いた。

コチサは無性に寂しくなった。突然一人ぼっちにされたような気分だった。
<良夫もいなくなっちゃったし。ユミも・・・>
もう、学校でおしゃべりをする相手はいなかった。とにかく勉強とバイトだけが悲しさを紛らわす手段だった。
コチサは高橋にも佐伯にもしばらく連絡をしなかった。とても会う気にはなれなかった。毎晩テレビも付けずに一人寂しく泣いていた。そんな毎日が続きコチサはみるみるやつれていった。
<私も辞めようかなぁ・・・田舎に帰ろうかな・・・>
時々そんな考えが頭に浮かぶようになった。

コチサの部屋は日増しに散らかっていった。もう片づける気にも、掃除をする気にも、洗濯をする気にもならなかった。コンビニで買ってきたお弁当の食べ残しが悪臭を放って炊事場の中に積み上げられていた。缶ビールの空缶がいたるところに散乱していた。コチサはもう飲まなければ眠れなくなっていた。ビールを飲んでも眠れない時は、ウイスキーを飲み、それでも寝付けない時は日本酒を飲む。
<お酒に溺れる人が後を絶たないのがわかるわ・・・>
酒は嫌なことを忘れさせてくれた。
コチサは家に帰る時間が段々遅くなっていった。それは、別に夜遊びをしているわけではなく、部屋で一人になるのが恐かった。学校から帰って薄暗い部屋の電気を付けて、静まり返った部屋の中に散乱するゴミを眺めると無性に切なくなるのである。
<これが、私が憧れたワンルームマンション?>
薄暗い部屋の中で鏡に映った自分の顔をみてゾっとした。やつれきった頬には血の気が無く、病人のような目の下には隈が出来ていた。まるで別人だった。
それ以来コチサは鏡を裏返して見れないようにした。
毎日、ただ無意味な時間だけが過ぎているように思えた。
バイトにもすっかり顔を出さなくなっていた。

休日は家に閉じこもったままじっとしていた。最近休みの日はいつもこうやってじっとしている事が多かった。まるで貝が固く殻を閉ざした様に、息をひそめてただじっとしているだけである。その姿は、他人が見たらまさしく病的な光景だった。
そんなある日曜日の午後、アパートの静寂を破るインターホンのブザーが部屋に響いた。コチサはハッとわれに帰り、パジャマの上にカーデガンをあわてて羽織ってドアをそっと開けた。そこにたっていたのは高橋であった。
コチサは高橋の姿を見るなりいきなり抱き着いて泣き出た。
「コチサ、、、いったいどうしたんだ?」
「えーん、えーん、誠さん」
「どうしたんだ。ずっと電話してたのに繋がらないし、事故にでもあったのか と思って心配してたんだぞ。」
コチサは鳴咽したまま声が出なかった。とにかく高橋の姿をみたとたんに心の底から湧き出た安堵感で胸がいっぱいになって泣きじゃくった。
「コチサ、、君の姿はヒドイぜ、、せっかくの美人が台無しだ」
高橋はコチサの部屋に足を踏み入れて、悲惨な散らかり様に驚いた。
「なぁ、とりあえずは俺の部屋に来いよ」

高橋は自分の部屋でコチサを座らせたあと、コーヒーを入れてコチサに飲ませた。
「何があったのか、もし嫌じゃなかったら話して欲しい」
コチサは高橋の顔をじっと眺めたあと、ユミの事を泣きながらしゃべり出した。
その言葉は止まることなく、初めて東京に出てきてユミど出会ったと時の話しから始まって、二人で交わしたアナウンサーになるという夢の約束に至り、そしてつい最近起きた悲しい別れの話しまで永遠3時間続いた。
高橋は辛抱強く、同情の顔を浮かべてうなずきながら全部聞いてやった。
全てを話し終わったコチサはなんとも言えない安心感が沸いてきて、また泣いた。
コチサの気持ちが落ちついたところで、高橋は静かに話して聞かせた。
「その君の友達には可哀相な言い方かもしれないが、彼女の夢は所詮その程度のものだったんだよ。夢を追いかけるというのはそんなに簡単な事じゃない。 実際に夢を現実のものにして掴んだ者と、途中で挫折した者の違いは、どこまで自分を信じきれるかのほんの些細な差だけだ。途中であきらめたらそこでゲームオーバーなんだ。その、自分を信じ続けるというのが一番簡単そうに見えて、実は一番難しいのサ。自分を信じられなくなった時点で 別に死ぬわけじゃない。ただ、生き方がかわるだけだ。君の友達のユミちゃんも、きっとそのうち新しい目標を見つけるサ。」
コチサはもう泣いてはいなかった。静かにうなずきながら話しを聞いていた。
「君も夢を実現したいなら、絶対にあきらめちゃダメだ。世界中の、いつの時代の成功者にも、全てに共通しているのは、あの世界一短かいウィンストン・チャーチルのあの有名な一説を忠実に守っているだけだ。それは・・・・・」
高橋がそこまで言いかけた時に、コチサがその先を続けた
「決してあきらめるな。どんなことがあってもあきらめるな・・・」
高橋はニコリと優しい微笑みをコチサにむけて
「そうだ、正解だ」
コチサは何日かぶりで安らかな熟睡に落ちた。


コチサの生活は元の生活に戻ったかのように見えた。しかし、自分の中ではもう一つ片づけなければいけない重大な問題が残っていた。
コチサはゆっくりと佐伯の家の電話番号をダイヤルした。

お久しぶりです。沙稚子です。。。。
はい。。元気です。
ええ。
はい。。
実はお話したいことがありまして。。。
あの。。
とても良くして頂いたのは凄く感謝しています。
私は本当に楽しかったですし、貴方の事は一生忘れません。
でも、私、もう貴方とはお会いすることが出来ません。
いいえ。そんなんじゃないんです。
他に好きな人が出来ました。
はい、そうです。ご存知でしたか。。。
はい、彼のことが。。。


コチサは受話器を置いて深呼吸した。
「さあ、アタシも人生の第二部の幕を開けるとするか!」


◆コチサの寸評

ふぅーご苦労様でした。
長編大作でした。
これほどの作品を「群像新人賞」に応募せずに「コチシム」にお送りいただいてありがとうございました。
多少の脚色をしましたが(コチサのイメージの確保の為だい)、全文掲載させていただきました。
PEACEさんて、書いているうちにどんどん筆が進んでいってしまうタイプでしょ。そういう人に必ずある「勢い」がヒシヒシと感じられる作品でした
PEACEさんも、この最後の文章「さあ、アタシも人生の第二部の幕を開けるとするか!」ということで、文筆業に転身しましょう。
「決してあきらめるな。どんなことがあってもあきらめるな・・・」
いい言葉だよね。