新年の挨拶回りに、地下鉄に乗っていた時の事・・・ まだ昼間で世間も少しだけお正月気分が残っているのか、空いている車内に一人の男性と男の子と女の子の3人が乗って来て、コチサの前の座席に座りました。 男性は、年のころは50歳から60歳くらい、ジャンパーにマフラーを巻いていて、巣鴨のとげ抜き地蔵あたりを闊歩していそうな背筋を伸ばしてきりりとした顔立ちをしています。 男の子は、多分小学校3年生か4年生くらい、寒さに負けずに半ズボンを履きこなし、膝が白く粉を吹いている腕白坊主です。 女の子は、小学校1年生か2年生、髪を伸ばしてキャラクターのシャツと鞄を合わせたおしゃれなおしゃまさんって感じです。 コチサの目から見て、一番左に男の子、真ん中に女の子、そして右に男性が座りました。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 女の子 「じぃじの家、あとどのくらい?」 男の子 「あとって、今乗ったばっかりだろ。じぃじの家は田舎だからまだまだだよ」 男性 「田舎じゃないよ。東京だよ」 男の子 「じゃぁ東京の田舎だぁ」 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 地下鉄千代田線は、JR常磐線に接続して取手駅まで直通運転です。 でも東京と言っているのだから、綾瀬の手前の三ノ輪とか南千住か? どっちにしても表参道駅から乗ってきたこの子たちには田舎なのかもしれない・・・ そんな事を考えながら、見るとも無しに3人を観察するコチサ・・・ 男の子はペットボトルのジュースを飲みだし、女の子は自慢の鞄からやはりキャラクターの絵が入ったお菓子を食べだします。 たしなめる男性の手や頭をたたいたり、無理やり男性の口にペットボトルを押し付けたり、お世辞にも行儀が良いとは言えません・・・ 口にペットボトルを押し付けられた男性は・・・ :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 男性 「じぃじはいらないから」 男の子 「じぃじも飲まなくちゃだめだよ」 女の子 「じゃぁ、あたしのお菓子あげる」 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 社内はジュースの雫が飛び、お菓子の粉が散らばります。 じぃじと呼ばれる男性の目がだんだん変わって来ました。 でもそれはコチサの予想とは反対で・・・ 女の子が体を伸ばし、じぃじの耳に口をつけて内緒話を始めます。 じぃじの耳はお菓子のカスがべっとりです。 そしてじぃじの目は一層トロンとして・・・ 「至福」という言葉が思い浮かびました。 こういうのを至福の表情というのではないか? 「目の中に入れても痛くない」という言葉がありますが、まさにこういう事を言うんだと思いました。 断片的にもれる話からコチサが推測するには、この少年と少女は今日から数日、このじぃじと呼ばれるおじいちゃんの家にお泊りに行くようです。 おじいちゃんが迎えにきて、お母さんは表参道駅まで送りに来たそうです。 最初に電車に乗り込んだときに、まだこのじぃじの表情が硬かったのは、この子たちの母親と離れたばっかりだったからなのだな・・・ってことは、このじぃじは父親側のおじいちゃんだな・・・などとコチサの推測が広がります。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 女の子 「ねぇ、じぃじの家に何日お泊りするの」 男性 「何日でもいいんだよ、好きなだけいいんだよ」 女の子 「じゃぁ、一週間」 男の子 「ばかだなぁ、学校はじまっちゃうよ。ねぇじぃじ」 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: じぃじはもうこれ以上ないくらい幸せの顔です。 じぃじの幸せは、コチサを含め数少ないこの車両の乗客にも感染したようです。 普段なら騒々しい子供の出現で渋面の乗客の顔が、この時ばかりはほころんでいます。 そういえば・・・ コチサのお父さんも、妹の子供3人(アン、ポン、タン)に「山じぃじ」と呼ばれていたっけ・・・ コチサにはすぐ怒るくせに、山じぃじはこのアン・ポン・タンの3人が、はげ頭を叩こうがかきむしろうが笑顔を忘れることがなかった・・・ どっから出すのか奇妙な声で、 「山じぃじですよぉー」 と自ら名を名乗っていました。 離れたところからじっと見つめるコチサの冷たい視線にも動じることなく、 「山じぃじですよぉー」 を繰り返していました。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 実はこの時は、コチサに今のような幸せな気持ちは伝わってこなかったのです。 でも、今この電車の中のじぃじの至福な顔を見ると、きっとコチサのお父さんもこんな気持ちだったんだなぁと思うことが出来ました。 この電車の中のじぃじは、この孫の為ならどんな苦労も省みないんだろうな・・・ そう思いました。 可愛くて可愛くて、自分の人生の全てを捧げても惜しくないんだろうな・・・ そんな気持ちが手にとるように伝わってきて、車内の乗客全てが幸せな気持ちになったんだと思います。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: でも、ちょっと待って・・・ じゃぁ、何故? コチサのお父さんが「山じぃじ」として、この電車のじぃじと同じ顔をしている時に、コチサは幸せな気持ちが湧いてこなかったの? やきもち? まさか・・・ それは、山じぃじがコチサのお父さんだったからです。 「この孫の為ならどんな危険も省みないんだろうな」っていう感じは、見ず知らずの人の場合は微笑ましい気持ちになりますが、自分の父親の場合は違います。 先ず、危険を省みないのが「自分の父親」だという事です。 「全てを捧げて」しまうのが「自分の父親」だという事です。 それは、コチサにとっては大変困ったことです。 危険に合うお父さんは心配だし、全てを捧げて無くなっちゃうお父さんも嫌なのです。 コチサにとってはお父さんの幸せは嬉しいですが、無償の愛で消えていかれたら美談ではなく困りものなのです。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: とりあえず「山じぃじ」の気持ちはわかった。 「アン・ポン・タン」の3人組を目の中に入れても痛くないくらいに可愛いという気持ちも・・・ でもその気持ちをわからせてくれたのは、実は電車の中で出会った全く赤の他人のじぃじでした。 新年早々、人間関係の不思議を感じた、今年も「哲学」コチサでした。 |
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